殺戮の地、キリングフィールドへ。
チョムリアップ・スオ! naruです。
プノンペンでは日本人に有名な安宿「キャピタルゲストハウス」近くの姉妹店「ナイスゲストハウス」に泊まっていた私たち。ちょっと高いエアコン付きルームしかなかったけど、連泊するからと交渉して割引してもらいました。ルームクリーニングは入ってくれるし、廊下の観葉植物を毎日ベランダに出して日光浴させてる優しさも素敵だしオススメです。
宿の前には、毎朝大勢のトゥクトゥクドライバーがいます。
「今日はどこ行くの?!トゥクトゥク!?」
毎日これでもかと営業をかけられるので、hiroさんは思わず「NO TUKTUK TODAY」と書かれたTシャツを買ってしまったくらいです。効果は0ですけど!
声をかけられると二言目には出てくるのが、
「キリングフィールド行った?!」
です。
キリングフィールドというのは、1970年代にポル・ポトの独裁政権下で虐殺が行われた場所の総称。キリングフィールドはカンボジア全土にあって、中でもプノンペン市街地からトゥクトゥクで約30分の場所にあるチュンエク処刑場は規模の大きなもの。
私たちはキリングフィールド往復と、同じ時代の負の遺産トゥールスレン刑務所への往路でトゥクトゥクをチャーターしました(13USドル/約1,300円)。プノンペンは街の中心地を外れると、一気に何もなくなります。つい3日前までいたベトナムと比べて発展の差を感じずにはいられません。
とはいえ土埃にまみれながらも、いいお天気の中風をきって走るのは気持ちいい! 実はタイやベトナムでもこういう乗り物はあったのですが、交渉の煩わしさや交通費の節約のため、一度も乗ったことがなかったんですよね……。ここにきて、はまりそうな私たち。
到着したらチケットを購入(6USドル/約600円)。東南アジアの観光地にしてはめずらしく、日本語のオーディオガイドも無料で貸出してもらえます。それもそのはず。
私たちが到着したそこには、ただただ野原が広がるだけ。
当時あった処刑場の建物などはポル・ポトの失脚後、怒り狂った市民たちによって跡形もなく壊されてしまったそうです。
今は穏やかにしか見えないこの土地で何があったか、ガイドを聞きながらまわります。
ポル・ポトの思想は究極の反資本主義。学問や知識は理想の「完璧な共産主義社会」を脅かすものでしかありませんでした。学校や病院は閉鎖。学者や医者などの知識人はもちろん、眼鏡をかけていたり、文字を読もうとしただけでも処刑されたといいます。
プノンペンなど大都市の住民は家も財産も強制的に放棄させられ、家族ちりぢりに地方の集団農場で過酷な労働を強いられ、街はたった1日でゴーストタウンになってしまったそうです。
だから全てが終わったあとも身一つしかなかった人々は、壊した建物の資材を使って自分たちの家を建て、この場所を作物をつくる畑にしました。ここが何のための施設だったか知ったのは、作物を収穫するために地面を掘り起こしたときに、おびただしい数の骸骨を見つけてから。
覗くのも怖いその場所と、掘り起こされた当時の写真。
地面を埋め尽くすように頭蓋骨が並ぶ写真は、ちょっと信じがたい光景です。
キリングフィールドには芝生で覆われた穴がいくつもあるのですが、この全てにたくさんの人が埋められていたのだそう。
併設の建物内には、当時の様子を描いた絵もあります。
殺害のための道具も用意されたものではなく、例えばこの木。
木の皮はしなって見えるけれど、触るとびっくりするくらい堅い。
鋭くなっている先の部分で、人の喉を切り裂いたといいます。
木の皮のほか、使われたのは竹の棒やただの農具。
「あるもので殺す」という、異常な切迫感がおそろしい……。
しかも虐殺はカンボジア人同士で行われたということが、よけいに凄まじさを感じさせます。ポル・ポトは自身が組織したクメール・ルージュに人々を監視・虐殺させる一方、組織内でもたびたび処刑を行うことで、誰にも絶対の立場を与えなかったのだといいます。
時々足元の土からはみ出ている布きれは犠牲者のものだというから、背筋がぞっとします。こんな風にまだ回収しきれていない衣類が、雨風にさらされるたびに出てくるのだそう。
男性、女性、大人、子ども。
回収されたいろいろな人の服の一部が、ボックスに展示されています。
わざとこんな風に残してある場所もありました。
たくさんのミサンガが括りつけられている木は、赤ちゃんの頭を叩きつけて殺した木。
さっきの服と一緒で、掘り出された骨を展示しているボックスもありました。
チュンエク処刑場の中心にある木には大きなスピーカーがつけられていて、毎日大音量の音楽がずっと流されていたのだそう。犠牲者の悲鳴をかき消すためと、ここがただのクメール・ルージュの集会場と思わせるためだったとか。
慰霊塔が、ガイドが案内する最後の場所です。
塔の中心には掘り起こされたたくさんの頭骸骨が、天井高くまで積まれていました。
シンと静まり返った慰霊塔は、犠牲者の安らかな眠りを祈るためのものとはほど遠く、私にはむきだしになった犠牲者の亡骸が今にも叫び出しそうに自分に起きた残酷な現実を必死に伝えてくるようでした。
息が詰まりそうな慰霊塔を出ると、太陽の光がジリジリと暑い。それでも目の前の生々しさから開放されて、肩の力がフッと抜けます。今はもう何もなくなってしまったこの場所を観光客が訪れるのを見て、犠牲者の人たちが「平和になったなあ」と思ってくれてればいいんだけど。
午後は処刑場へ送られる前に人々が監禁された「トゥールスレン収容所」へ行きます。
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