世界一周プレ旅行! 仙台被災地ツアーへ。
世界一周に出発する前に、ぜひ行っておきたかったのが東日本大震災の被災地でした。
前々から行きたいと思いつつ、早3年以上……。
日本人として知っておきたい!
海外で日本のことを聞かれた時、答えられないと恥ずかしい!
という気持ちもあり、この旅行がいい機会に٩( ‘ω’ )و
行ったのは仙台!
日帰りで、効率よく見聞きするために「語り部タクシー」をお願いしました。
仙台中央タクシー「語り部タクシー」
《私たちが巡ったルート》
仙台空港
閖上地区
・旧閖上小学校
・旧閖上中学校
・メイプル館
・東禅寺
荒浜地区
・荒浜小学校
・浄土寺
・荒浜慈聖観音
蒲生地区
・住宅地
・東日本大震災慰霊の日
・さんこやずの一本松
七ヶ浜
塩釜
今回は被災地巡りと決めていたので、松島などの観光地は入れませんでした。
次に来るときは行きたいな。
出発は関空、実は人生初LCCでした!
思ってたより乗り心地は快適♪ 格安でもやっぱり日本クオリティだからかな?
到着時のアナウンスが関西らしく「ほんまおおきに♥」。
大阪育ちの夫は「言い方が変!」と言っていましたが、別にCAは大阪育ちじゃないから。求められても困るよね。
朝早い便だったこともあり、空の上では熟睡。
仙台空港に到着してゲートを出ると、私たちのネームカードを掲げたタクシードライバーさんがお出迎え! 被災地巡りがスタートしました。
仙台空港
まずは仙台空港、私たちが着いたばかりの1階到着ロビーから。
ここには約3mの津波が押し寄せ、1階は壊滅的だったけれど、旅客・周辺住民・空港職員の約1400人が2階以上に避難して助かったそう。広い平野の中で、数少ないしっかり残った建物のひとつだったとか。
「あまり報道されないけど学生2人がここで亡くなったんだよ」
今はすっかりきれいな空港で聞く、ガイドさんの言葉とのギャップに胸がざわつきました。
津波の到達ラインを示す柱のそばには、大震災の様子を伝えるパネル展示が。
震災時、搭乗中の航空機がなかったのが不幸中の幸いだったそう。飛行機が津波に流される様子は、当時テレビなどで見たことがある人も多いかと思います。
近くの陸上自衛隊は被災した基地そっちのけで駆けつけ、米軍は自衛隊と合同の「トモダチ作戦」で復旧活動に従事。空港は1ヶ月後には運行再開。強い者が困っている者を助ける。この時の自衛隊や米軍は、本物のヒーローだったと思いました。
ただ、写真で見ても、あまり現実感がわかない……。
水に沈んでるアーチ状の屋根は、外の車寄せの屋根です。分かるかな?
写真と今を見比べても、この現実感のなさは最後まで変わらず、この災害がいかに想像を絶するものであったかを思い知らされるばかりでした。
このあと空港で宮城県の地図を手に入れて、次は閖上地区へ。
閖上地区
空港から閖上地区に向かう途中、広がるのはだだっ広い草地です。
地区ごとに震災前後の写真集を見せてもらいながら案内してもらえたのですが、震災前はやっぱり家があった場所なんですよね……。以前を知らない人から見たら、もともと何もなかったかのよう。
草地の中に、ぽつんとお社が。
周りには何もないのに、このお社だけ残ったのだそう。
「これは本当に、奇跡だよね」
ガイドさんの言葉にも力が入った気がしました。このあと立派なお寺が流されてしまった跡も見たことを思うと、本当にその通り。
窓の外には青々とした水田が広がる光景も。
瓦礫をどけて、海水につかった土を全て入れ替えたそう。でもお金のない人は農業をやめざるを得なくて、荒れている田んぼも多いらしいです。
はじめ閖上地区は、閖上中学校と「閖上の記憶」というパネル展示などが行われている場所の2ヶ所へ行ければと思っていましたが、車中で予定変更。巡る場所はガイドさんにお任せすることにしました。お任せして、正解だったと思います。
旧閖上小学校
ガイドさんは「閖上小学校は、もっと知られるべき学校」と言っていました。
1階まで浸水し、窓にはその跡が残っています。
「被災した記憶をマイナスにはしたくない」というガイドさん。
この小学校から学ぶべきところは、非常階段の「色」。緑や青に塗られた階段が校舎の壁に馴染まず、震災の非常時にもよく目についたそう。おかげで、渋滞の列から車を捨てて逃げてきた人たちが、迷わず屋上を目指せて助かったとのことでした。
一方で、体育館に避難していた方の多くが、津波にのまれそこで亡くなったそう……。1978年(2005年かも?)の宮城県沖地震でも観測された津波は数十cmだったことから、今回もほとんど被害はないと思った人が多かったことが災いしたそうです。体育館は最近まで、持ち主の見つかっていない流出物置き場として開放されていたそうですが、私たちが訪れた時は閉まっていました。おそるおそる、わずかな隙間から中を覗くと、ステージの上には家具などがまだ置かれたまま。開いていても、入るのは怖かったなと思います。
ぼけぼけですが、津波が届かなかった廊下の掲示板には、カラフルな色紙でつくった「卒業おめでとう」の掲示物がそのまま時をとめていました。
ふたたびタクシーに乗って、次は閖上中学校へ。
この歩道橋から撮影した映像を、このあと行った「メイプル館」で見ることができました。
旧閖上中学校
震災が、卒業式当日だったという閖上中学校。生徒も14名亡くなっています。
慰霊碑の前にある教室の机には、なくなった生徒へ向けた友達からのメッセージが。
小学校もでしたが、当時のままの何でもない掲示物などがそのままになっている様子を見ると、やりきれない気持ちになります……。
校門前のガードレールはなぎ倒されたまま。住宅が立ち並んでいたはずの周辺には、何もありません。
閖上中学校にも小学校と同じく、周辺の住民の方々が避難に集まったそう。けれど正面玄関に人が殺到して、避難が遅れてしまったといいます。その要因のひとつが、小学校の非常階段がカラフルだったのに比べ、中学校の非常階段が壁に溶け込む色だったこと(時計のかかっている壁が階段)。
大きな犠牲の上に得た学びは、これからきっと生かされていくはず。
メイプル館
閖上中学校近くで震災について学べる「閖上の記憶」は、まさかの人不在だったのでパス。赤貝で有名な「ゆりあげ港」にある「メイプル館」へ。
道中で、名産・笹かまぼこを製造していた「ささ直」の工場跡を通りました。
1階はすっかり何もありません。
ゆりあげ港に到着! 朝市は日曜日だけ開催なので、水曜日の今日はシーン……。日曜日に来るときはぜひ立ち寄りたいですね。
隣接する「メイプル館」は、カナダの支援で建った建物。
外観撮るのを忘れましたが、温かな木造のとてもきれいな建物です。中は地元宮城の名産品販売や、イートインコーナー、震災資料館になっています。
ここで見ることができる映像のいくつかは、今まで巡った場所で撮影されたもの。
仙台空港の2階から撮影した、驚くほど早く流れる濁流の様子。
閖上小学校近くの歩道橋に残され、津波が上がってくる恐怖が伝わる映像。
閖上中学校の非常階段から撮ったであろう、車や住宅がミニチュアのように流れる様子。
施設内に貼りだされていた、津波の説明。
理解しやすいんだけど、何というか、表現がなんともコメントしずらい……!
映像のほかにも、持ち帰りできる資料もたくさんありました。
聞いたら色々教えてくれると思います。そして、お土産もぜひぜひ買ってね! という感じです。
東禅寺
次の荒浜地区へ向かいながら、遠くに見えたお寺に連れて行ってもらうことに。
広い土地に残る家の基礎だけが、ここに家が並んでいたことを教えてくれます。
ガイドさんも、プロフィールに趣味は釣りと書いてあったので、休みの日は来るのかな。津波があって、被災者の方々が海に対してどんな気持ちを持っているのかずっと気になってたけど、なかなか直接聞くのははばかられたんですよね……。
到着した東禅寺は、遠くから見た印象とうらはらに、中身はなくてボロボロ。住職さんは、津波で亡くなってしまったそう。あとに残った広く高い屋根は、鳥たちのさえずりが響く良い住処になっていました。
荒浜地区
被害にあった多くの地域は盛り土がされるそうですが、仙台平野には大きな山がないため、他県に比べても土不足が問題のようです。土がないから、瓦礫を粉々に砕いて、それを材料にしているのだとか。作業もあまり進んでいませんでした。
荒浜小学校
次に降りたのが、荒浜小学校。ここも1階の窓が全て抜けています。立入禁止ですが、この建物は今後しばらく、避難場所として残すそうです。
浄土寺・荒浜慈聖観音
住宅街にあったお寺は、いまプレハブで再建の一歩を踏み出しています。
震災を忘れないための慰霊碑が建てられていました。裏には被害の概要やその日の荒浜小学校の様子などが刻まれています。
遠くに見えるのが、震災後に建てられた「荒浜慈聖観音」。
観音様の頭の上まで津波がきたそうです。
かつて森のように立っていた防潮林は、まばらに残るだけ。残った松も、津波が流れ込んだ方向に傾いています。砂浜だったこの場所には、貝殻が落ちていてもいいものですが、なぜかあまり見かけないのだとか。1本の松の根元にだけ少し残ってて、ガイドさんが拾って「お守りに」とくれました。
観音様から、内陸を見た景色。
こんなに見渡せるような景色ではなかったはずの場所。
蒲生地区
住宅地
蒲生地区に入る前、「あちらのほう。普通に住んでいるように見えるでしょ」とガイドさんの言葉に目を向けると、そこにはポツポツと残る家が。瓦礫がどけられたあと、比較的築年数が新しい家は形を残していました。けれど、しばらく進むと何かがおかしい……。
家は窓が抜けたまま、放置されていました。住もうと思いがれきはどけたものの、諦めて去った家もあるそう。食器棚には、使っていた食器がそのまま入っています。
水は徐々に引いていく様子が、扉についた泥の跡から分かります。
プラレールのようなおもちゃが。可愛らしい家は、きっと若いファミリーの住む家だったはず……。
蒲生地区は、宮城県の中でも復興が進んでいない場所だそう。
「例えば道を整備するような“復旧”は進んでる。でも、“復興”は進んでいない。特に蒲生は、発電所も漁港もない地域だったから、時間が止まってるんだよね」
ガイドさんの言うとおり、家がそのままだったり、他地区に見られた盛り土もありませんでした。地盤が下がっているから雨が降ると浸水する場所もあるけれど、仮設住宅でノイローゼになってしまい、「やっぱり自宅がいい」とトローリーハウスを買って戻ってきた高齢者の方の家もあると教えてもらいました。また、中にはリフォームして住んでいる家もあるけれど、地区全体を嵩上げをする時にはどかなければいけないそう。自分の家に住みたいという気持ちの一方で、廃墟も多いこの場所に住むというのは金銭的にも厳しく、寂しくもあるだろうなと思いました。申し訳ないとは思いつつも、外から来た私には怖いくらいの場所です。
東日本大震災慰霊の日
住宅地を巡ったあとは仙台中央タクシーと地域の自治体が協力して建てたという、蒲生地区の慰霊碑へ。
手を合わせて、下のケースに入っている資料をいただきました。自宅で被災した方が、近くの中野中学校へ避難してから救助が来るまでの24時間の記録を記した小冊子。5冊手渡され「足りる?」とガイドさん。きっと、いろんな人に読んでほしいんだろうな。帰国後になるけど、読みたい人がいたら渡すよー。
写真がないのですが、この冊子の中に出てくるお地蔵さんが瓦礫の中から探しだされて、今も慰霊碑の近くでこの地区を見守っています。
さんこやずの一本松
ここもガイドさんいちおしのスポット。「私にとってはこれが本物の奇跡の一本松」と連れてきてくれました。「さんこやず」というのは、地名というより、屋号のようなものだそうです。
以前は2本並んだ夫婦松だったそう。周りには守ってくれる建物も何もなかったのに、片方は折れて1本だけが残っていました。残された悲しみ、寂しさ。そんな気持ちを残された松に重ねて、それでも凛と立つ姿に勇気づけられた人は、きっとガイドさんだけじゃないんだろうな。
木の幹に触れて、タクシーへ帰ってくると「思わず触りたくなるでしょう。おふたりが触っていたのを見て、連れてきてよかったと思いました」と、ガイドさんは笑っていました。その感触を忘れずにいたいな。
地盤が約5m下がったという土地から見る海は、水平線の位置が高くなったそう。船が浮いているように見えるのが分かるかな。
道中にはJR仙石線のレールや車輪など鉄くずの山が。
これでもかなり減ったそう。
具体的な予定は決まっていないけれど、高砂橋を境に海側には盛り土をするそう。「同じように被害にあっているのに、1本道を挟んで対応が違うっていうのはね」。どこかで区切りをつけないといけないと分かりつつ、それは簡単なことではないですよね。
七ヶ浜
次の七ヶ浜は、案内してくれたガイドさんの実家がある場所。
真正面から太平洋に面した「表」と、そうでない「裏」で、被害は大きく違ったそう。ガイドさんの実家は裏にあり、水が溢れたような床下までの被害で済みましたが、表に住んでいた親戚や友人には亡くなった方がいることを話してくれました。
七ヶ浜へ向かう途中、災害時にキリンビールの工場から道路に散乱した缶ビールが持ち帰り自由になった話はきいたことのある人もいるかも?
「夢メッセ」というイベントホールは、カナダの援助ですっかりきれいになったとか。閖上のメイプル館といい、カナダすごい援助してくれてるんだなあ。
そして着いた七ヶ浜。坂が多い街は、海辺の低い土地部分だけが、閖上や蒲生と同じように更地になっていました。
テトラポットが崩れていたりするけれど、海風は心地いい。
「津波はあったけど、やっぱり海はいいですね」。海の近くで育ったガイドさんが、それでも海が好きと言っていたこの時が、この旅行の中で一番印象的な瞬間だったように思います。語り部も、はじめは泣きながら案内していたそう。今日のガイドは、3年経った今だったから聞けるガイドだったんだなあ。
そして、塩釜へ。
塩釜
ここは港があったこともあり、復興が早い地区だそう。
この時点ですでに2時過ぎだったため目指すは……
海鮮丼!
私は選べる丼で「マグロ赤身+サーモン」。
夫は「おまかせ丼」で、なんだか色んな種類の海鮮がもりっと豪華。
正直、おまかせ丼にしとけばよかったなって思ったよ!
復興市場にきたら、ぜひお立ち寄りを。
お土産にもできる海鮮店もいくつかあって、私たちは「金華さば味噌煮」の缶詰を買いました。東急ハンズで知って、食べたいものだったので嬉しい!
被災地でお金も落とし、長かった被災地ツアーも帰路へ。
最後に、たまたま停泊していた海上自衛隊の船を見に行きました。3月11日に津波を越えていった「まつしま」と同じ型の船だそう。装備も含め、かなり立派でした。
対岸に見える塩釜市場は、津波が抜けるつくりになっていたため、見事被害がなかったそう。自然の脅威も受け流すなんて、つくった人素晴らしいですね。
おまけ・仮設住宅
仙台駅へ帰る途中、仮設住宅の横を通りました。
震災から3年以上経ち、はじめは早く家に帰りたいと言っていた人たちの中にも、「もうこのままでいい」と仮設住宅へ住み続ける人もいるのだとか。「気持ちはわかるけど、ただ家賃も何もいらない生活に甘えている人もいる」と、ガイドさんは複雑そうに言っていました。
計6時間半、とても凝縮された時間を過ごすことができました。
地震が起きた時は、待つことしかできないそう。逃げなければいけないほどの地震は、とにかく動くことができないと。そして何か一つ持ち出すとしたら、助けが来るまで生き延びるための「水」。電気が止まり情報から切り離されることが、どんなに怖いか。約半日、ガイドさんは実感を込めて話してくれました。
震災前までの状態に復興するには、まだまだ時間のかかりそうな被災地。
でもその一方で、青々とした水田や、地元に帰りたいという一心でリフォームした家々、私たちを案内してくれたガイドさんの姿に、復興へと進む人たちの力強さも感じました。
見聞きして感じたことを、出かけた先のどこかで、話す機会があるといいなと思います。
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Comment
しーちゃんです。
確かに、日本人として知っておかなければならないことのひとつだね。
人々に何かを伝える側の人間としても、こういった現地に行きたいって、この記事読んで考えさせられました。
「津波はあったけど、やっぱり海はいいですね」この部分が特にぐっときた…!
ブログリーダーにも登録したのでこれからも更新楽しみにしてます!
良い旅を~!
コメントありがとう〜!
私も漠然と行きたいなって思いながら、ようやく実現させられたよー。行こうと思えば、飛行機に飛び乗ってあっという間に着くのに、なかなか重い腰があがらなかったのよね……。でも「知りたい!」って気持ちが最高潮になったところで行けたから、これもタイミングだったのかな。
機会があれば、ぜひ現地に行ってみて〜!